昭和54年08月12日 朝の御理解



 御神訓 一つ
 「子を産むは、わが力で産むとは思うな。みな親神の恵むところぞ。」

 昨日は四国の川上さん、久留米の井上さんのお姉さんに当る。あちらのお嫁さんと、それから娘がお産歩きに帰っておりましたから、二人が少しだいたいは離れておったんでどっちも初産のです。前々からお願いがしてございましたが、家の嫁のお産が始まったからというのでその病院に行かれて、そして間もなく男の子を安産のおかげ頂いたというて久留米の井上さんからお届けがあって、暫くしましたら、四国からというて電話がかかってまいりました。
 「もう井上さんからお礼のお届けがありましたよ」「いいえそれがあなた、娘ん方も出けました」というお電話でした。まぁ一緒にそれこそ双子のように。しかもどっちとも息子のおかげで、もう本当に案ずるより産むが易し、というけれどもその「産むが易し」というそこの所がね、私は「人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力自ずから湧く」という、わが力で産むと思うなと。というて、そのままじっとしておいてよいのかというのではなくてです。
 もう本当に人力自ずから湧いてくる。自ずから気張れてくる。そういう働きにいうならば乗じてというか、そういう働きに便乗してのおかげを、私は本当のおかげだとこう思うです。これはお産だけの事ではありません。総てがそうです。人力に見切りをつけて神力に縋るという事。そこからね、人力は自ずから湧いてくるというのです。その自ずから湧いてくるというのが、気張ろうと思わないでも、気張らねばおれない働きが体内に起こってくる。
 これはあのおかげを頂くという事の一つの要諦こつだと思います そこで日頃がです、いよいよ成り行きを大切にさせてもらい、成り行きを尊ばせて頂く信心生活が出来なければならんという事になります。教祖様は、「此方の信心は喜びで開けた道じぁから喜びでは苦労はさせん」とおっしゃる。四国あたりでは、金光様の信心を、お産の神様というふうにいうそうです。大阪あたりでは金という字がついているからでしょうね、金儲けの神様というふうにまいうんだそうです。
 それこそ金儲けの神様でもなからなければ、お産の神様というわけでもないのですけれども、総ての道理という事がです、例えばなら、金を儲けさせて頂くでもです、自分が儲かろうと言う様な心を起こすな、儲けさせて頂くんだという事。大阪商人がそれこそ当時の玉水の、それこそ沢山集そのまったというのもです、いうならば、初代の玉水の湯川先生のいわゆる御信心のお徳に縋ったわけですけれども。
 やはり商都といわれる程しの商売人の町ですからね。商売人が困る難儀をする行き詰まると言った様な時に、やはり悲しい時の神頼みでお参りをする。そこでいうならばお取次をなさる。沢山なこれは商人だけじぁないでしょうけれども、特に商人が助かった。どうにも行き詰まって、どうにもならないという商売人がお参りをしてきた。そこでお取次をさせて頂くから、私のいう事を聞かなければいけないぞというのですね。
 今日から一生懸命、御主人が神様だと、あんたはそこの番頭さんだ。だから番頭が忠実に働く。だからその借金も、売る事も借金も一応御主人様の物と思えとこういわれる。あんたの借金ではないんだ。それで忠実にいうならば、御主人大事に働かせてもらう。そして今日からの売上げはね、金箱の中に全部入れて、集金にもし来たら来た時に有るだけの金を払えと仰った。
 貯まっただけの金を払えと仰った。そんな事でいいでしょうかと。そのかわりに自分ですると思うな、神様のおかげぞ、神様が御主人ぞ。というお取次をなさったという事です。集金に来る、もう有るだけ、今日はこれだけありますから全部持って行って下さいというわけ。だからやっぱり集金に来た者も無理はいわれん。お金箱ひっくり返しての事ですから。おかげを頂いてもう月末にきちっと収支が出来た。大変喜んでお礼参りをしたというお話です。
 所がですその二月目にもやっぱし同じ行き方をさして頂いとったが、二十五日ともう月末が近づいてきた、そこで果してね、どの位金が貯っとるじぁろうか、月末に払いが出来るじぁろうかと思うたからそれをひっくり返して見た所がまだ足りない。その後又一生懸命お願いせにゃというてその、月末にいよいよ支払いをすませて貰うと支払いが、そのう支払う金が足りなかったと。
 それで又、湯川先生に、実はこんなわけでお金は足りませんでしたというたら、お前が途中でお金を数えたろといわれた。そりゃ二十五日になったから後、四、五日しかなけんどうじぁろから思うて数える事は数えましたが、数えたそれがいけなかったと、ね、自分が考えた。あら、まあいくらなからにゃ出けんと思うた。任せる心とはそんなもんです。自分が人知人力。いうなら神力をもう捨てて人力にすがっているではないかと、自ずから湧いてくるおかげの世界がせばめられた。
 お前が途中で調べる様な事をするからおかげにならんという、教えられたというてこれは有名な話でございます。こりゃもうそれこそ自ずから頂けれるいうならば、自然の働きをもう充分に受けようと思えば、ままよと心を出さねばいけんのです。その商売人の人でも、ままよ、という心がなければ出来る事じぁありません。お産でもそうです。いろいろな手立てをする手当てをする。今はまぁ医学的に、例えばあの注射を打って早く産ませたりというふうな事がございますけれどもね。
 本当は此方の道は喜びで開けた道じぁから喜びでは苦労はしてはならない。ね、せんですむ程しのおかげが受けられる。そこで常日頃、喜びの稽古を本気でしておかねばならん。ね、いよいよ、いよいよの時には人力に見切りをつけて、もう神力にすがる外なし。そこから自ずと湧いてくるもの。例えば教祖様、私は今瀬戸内という教学、学院の、学院ではない、教学研究所の所長をしておられる先生のお話の中の、先日教務所から送ってきておりましたから読ませて頂いとりますが。
 42才の金光大神、それから46才までの金光大神と、まぁ後はずっと御晩年まである事でしょうけれども、その46才までの御信心のところを今読ませて頂いとるんですけれどもね。42才まではもう人力の限りを尽くされたわけです。それこそ人一倍の働きをなさって、そして人一倍おかげをまぁ受けられたわけです。それから42の大患。そして神様からいろいろお達しがあるようになり、もう神様にもう身任せての信心に入って行かれた。いうならば神様任せの信心生活に入っておいでられた。
 ですから私共が人力の限りを尽くさせて、まぁ頂くそれは信心のなかった時代の事。なら神様に身任せした、神様にまかせたからもう、じっと腕こまぬいておってよいかというとそうではなくて、任せる所から必ず自ずと湧いてくる力がある。生まれてくるんです。自ずと湧いてくる。それがみな親神の恵む所ぞと仰せられるのは、赤ちゃんだけではない、お産だけの事じぁない。総ての点におかげを頂かせて貰わなきゃならん。
 四国の川上さんの井上さんから先にお届けがあった時に、御一緒にお名前も頂いてくれとこういう。神様にお願いさして頂きましたら、常喜(じょうき)と頂いた。常喜という事は、常の喜びと書いて、「じょうき」さんではどうもいかんけんで、「つねき」と呼ぶようにおかげ頂いたんですけども、頂いたのはじょうきと頂いた。結局、常の信心、常の喜び、が大事だという事を思います。
 常日頃からの信心 それをどういう信心をさせて頂くかというと、合楽ではね、合楽理念に基づくという事を申しますけれども、その芯はどこまでも神様の仰せどうりに仕るという成り行きそのものを、いよいよ尊ばせてもらう大切にさして貰う。そして神様のおかげを頂くより外に手はないという所まで、自分の信心自分の生き方というものを、障子一重がままならぬ人の身であるという事実を、私共が把握させてもろうて、人力にいよいよ見切りをつけて、いうなら神様任せの信心生活が出来るようになる。
 その神様任せの、信心生活が出来るようになるところから、自ずと湧いてくる人力、気張ろうと思わんでも気張らずにおれないという、いうならば信心がいうなら生き方が生まれてくる。寝とこうと思うても寝ちゃおれないような働きがおきてくる。じっとしておこうと思うけれども、どうかせずにはおれないと言う様な働きが、体内に起きて来る程しのおかげを頂いた時に、始めてね、はぁこれが神様のおかげで、という事になるのじぁないでしょうか。
 神様のおかげを頂いていうならば、といってじっとしておいてよいというわけじぁない。自ずと湧いてくる人力に催されて、ね、その催しに催さるその働きをキャチさせてもらうという、生き方を本当の信心生活というのじぁないでしょうか。自分が思いついた、自分がする、自分がせねばというものではなくて、結局、神様にさせて頂くという実感がいよいよ強うなってくる。又、同時に神様のおかげを頂いておるなぁという実感がいよいよ強うなってくる。いうなら常喜である。
 常にいうならば、信心の喜びを感じさせてもらえれる生き方。子を産むはわが力で産むと思うな、みな親神の恵む所ぞと仰る。本当にその恵を恵と感じれれる、生き方を身に付けて億万長者にならせて頂くという。おかげでなからなければ自分の我力で億万長者になった、もう必ずそれが大きな災いの元になる。それこそ親の代より子の代、子の代よりも孫の代と繁盛していかねばならんのがね、親の間はそれこそ、唐様に書く三代目といったような結果になりかねない。
 神様のおかげで出来た、神様のおかげで産み出すおかげが頂けた。いや力が頂けたという所に自ずから湧いてくる、自ずから起こってくるその催しに催されての、いうなら、日々である。それを私は本当にリズムに乗った信心生活とは、そういうもんだと思う。今日は、これは勿論お産のいうならば、御教えですけれども、ね、道理に於いては人間もう人事百般の上の事柄の上に、これが当てはまって来る御教えだというふうに思います。
   どうぞ。